*Croquis de Paris No.710 ~ シャンティイ城(コンデ美術館) ~ *
2022年11月4日10:00 AM カテゴリー:Designersdiary
シャンティイにやってきた我が家。
まずはシャンティイ城の向かいにある、大厩舎を少し見学して、
その近所で素敵なビストロに出会い美味しいランチを済ませて
ようやくやってきたシャンティイ城♪
何年振りだろう〜
ルネッサンス様式の姿をした繊細で美しいお城ですが、
長い長い歴史を経て、今の姿になったのは19世紀後半なのだそうです。
「1815年にナポレオンの帝政が倒れ、
王政復古の時代になって、城はブルボン=コンデ家の所有に戻ります。
しかし、度重なる政権交代のため、改修工事が本格的に着工するのは、
オーマル公が20年以上にも及ぶイギリスでの亡命生活の後、
フランスに帰国するのを待たなければなりませんでした。」
ありがとうオーマル公^^
☆何度読んでも歴史に疎い私の頭では復唱できないその流れは
MMM/メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンドさんにて
https://www.mmm-ginza.org/museum/special/backnumber/0809/special01-02-01.html
ヴェルサイユ宮殿の様な巨大さはないものの、
美の要素が凝縮されたようなお城。
2階の正面の入り口付近に見えた、尖塔?の真下にある教会も、
中に入ってみると、その足元から天井に至るまで、その装飾がとても繊細で美しくて。
要素が多いながらも居心地が良いのは、絶妙な全体調和が取れているからでしょうね。
フランス最後の王の息子であったオーマル公
(アンリ・ウジェーヌ・フィリップ・ルイ・ドルレアン)
8歳の時に、名づけ親であったコンデ公ルイ6世アンリが
嫡子がいないまま亡くなったため、シャンティイ城を含む膨大な資産を相続します。
情熱、学識、毅然たる態度、財力、
立派な城主たる者に必要な四つの美徳をすべて兼ね備えていたと言われるオーマル公。
ナポレオンによる身の危険から逃れるため、
イギリスに亡命したまだ20代であったオーマル公は
亡命中のイギリスや、ヨーロッパ中のオークションを巡り収集活動を行い、
愛するシャンティイの古文書も取り寄せ、
☆ 廊下もがらっと雰囲気が変わって可愛いでしょ?(誰目線^^)☆
1871年にフランスに帰国した際には、
その収集品は質、量ともに第一級の個人コレクションとなっていました。
→凄いですよね。。。
後から調べて感動する私
(中澤理奈さんという方が書かれたこの記事がとても参考になりました)
https://www.mmm-ginza.org/museum/special/backnumber/0809/special01-02-02.html
例えばこれが、日本語でパンフレットで書かれていても
私は割とサクッと見流して回ってしまうタイプなのですが、
こうやって改めてじっくり味わってみると、
本当に尊敬でしかないですね。。。
なんだか居心地が良く、幸せな気分にさせてもらったのは、
そういう愛情みたいなところを受け取るからかもしれませんね。
そして、
こちらが城内にあるコンデ美術館のギャラリー
オーマル公がコレクションした美術品の数々が壁の上まで。
そして建築としての芸術も、床や天井に至るまで、
細部に渡ってその気遣いが感じられます。
亡命前に担当していたデュバンが亡くなったため、
改装工事は1855年にローマ賞を受賞した当時の一級建築家、ドーメが担当。
工事はとても複雑で。
まず、グランシャトーとプチシャトーの2つの城をひとつに。
土台しか残っていなかった三角形の形をしたグランシャトー、
それに、2つの建物の間にあった堀。
このこの2棟を連結させ、調和させるのは容易な仕事ではなかった様です。
→だから、作りも複雑で。お城の中で「ここ見たっけ?」と
地図を頼りにしなければ見落としてしまいそうな構造の理由はここにあったのですね。
https://www.mmm-ginza.org/museum/special/backnumber/0809/special01-02-03.html
新しいお城の外観は、当時の人々が関心を示さなかった、
王政を思い出させるブルボン王朝時代風ではなく、それ以前のヴァロワ王朝風。
かつての城主、モンモランシー大元帥が生きた、
フランス・ルネサンス時代にインスピレーションを得たものだそう。
→その気遣いが最高ですよね。。。
それが新ルネッサンス様式と呼ばれる所以なのですね。
フランスに帰国する直前に、
大切な妻や、最後のコンデ公となった息子を亡くしたオーマル公。
フランスに共和制が定着しつつあった時代。
フランス王家に繋がる貴族にとっては、いよいよ完全な衰退期にあたる時代に、
力を注ぎ込まれたシャンティイ城の改築。
城の内装は改築開始からオーマル公のコレクションを陳列するために設計され、
絵画を飾る部屋には天窓を。大居室には先祖のゆかりの品や
当時の家具コレクションを中心に装飾されているのだそうです。
それに反してオーマル公の居住空間には、
19世紀当時の様式を中心とした簡素で近代的、かつ機能性を重視した設計が施され。。。
→これが、時々ガラッと雰囲気を変えて、異空間にいるような錯覚になったのですね。
しかもそれは同じ時にあえて造られたもの。
☆ トリビューンと呼ばれる八角系の部屋、屋根部分には、オーマル公ゆかりの 土地を描いた絵が描かれているそう ☆
真の貴族的精神、「ノーブレス・オブリージュ」
「同時代の一流の芸術家に注文し、芸術を振興することこそ、財力ある者の特権である」
という言葉を残し、同時代の画家たちの作品も注文し購入していたオーマル公。
1880年代に入り、王族にとってますます冷たい世の中になっていく中。
我が身と城、そして城を飾る彼のコレクションの安全と名誉を守るため、
城を含む領地とその内部にある美術品をすべてを、
一般に公開することを前提に、自ら会員であったフランス学士院に贈ります。
「絶対に陳列品の配置を変えないこと」、
「コレクションを常に完全な状態で保管する、よって貸出を禁止する」
研究者の方にとっても、私たちにとっても、今目の前で当時のままのコレクションがこうして見られるのは、その時に出された2つの条件があったからなのですね。
愛だ^^
いやぁ、すっかりオーマル公さんにハマってしまいました
記事を書かれた中澤さんにも感謝。
さぁさ、来週は軽く
お庭をお散歩します♪
A la semaine prochaine
☆MUNEKO☆